1981年4月16日、ナイジェリア人の父と日本人の母の間に生を受けた一人の男の子、その名は“Valentine”。宮崎で産まれてすぐ父の故郷・ナイジェリアに渡り幼少期を過ごす。
7才、ナイジェリアに両親は残り単身日本に帰国。 宮崎の祖母の元に預けられ日本での新たな生活が始まった。まだ幼いバレン少年、両親と離れるのは寂しいが、ナイジェリアでは目にしたことのない物ばかり、 目新しい物に心ときめく。しかし学校では日本語を喋れず友達の輪に入れない。馬鹿にされイジメにあったこともあった『なんで僕はみんなと違うの?ばぁちゃん?ハーフなんて嫌だ、みんなと同じがいい』と祖母に泣きついた。 幼な心に暗い影を落とす、そんな日々が続いた。しかし本来持っている適応力で何とか日本語もマスター。持ち前の明るさで友達も次第に増え日本の生活も慣れたものになった・・・。
そして15才で再び両親のいるナイジェリアへ・・・しかし何も知らない幼少期とは違う、日本の豊かさを知ってしまったバレン少年、日本の便利な生活とは真逆の世界、あると思う物がない。 幼少の頃話していた英語も忘れた。
毎日片道4キロもの道のりを、命の水を求めて何時間もひたすら歩く日々。行きはいい。が、帰りは両手にポリタンク満タンの水、あまりの重さに手が痺れ、歩くことすらままならない。まさに地獄。(今や筋肉隆々がトレードマークのバレンタインだか、その当時は体重40sくらいしかなく、痩せてガリガリだったそうな) 『 いつまでこの現実は続くのか?!』途方に暮れる少年の脳裏に“絶望”という言葉が突き刺さる・・・灼熱の大地、果てしなく続くアフリカの大地を残酷だと思う日本人はそういないだろう・・・。
電気も通ってない、日本人の子供なら普通に持っているテレビゲームもない、価値感も違う、食事も日本のようにバリエーションがあるわけでもなくほぼ同じ食べ物、たまにの楽しみは父がクリスマスや誕生日に、お金を工面して買ってくれたコーンフレークを、兄弟3人量りでキッチリ分け噛み締めることだった。 あのコーンブレークの甘い味と香りは今でも忘れられない・・・。 日々の生活もままならないくらい貧しかったが、そんな中でも両親の優しさと愛、家族の中で何故か笑顔が絶えなかったことが唯一の救いだった。
当時、軍事政権から民主主義の政権に移行した転換期のナイジェリア。しかし一部内戦もあり、まだまだ混沌としていた時代、ライフル銃やマシンガンを常備する軍人や警察もよく見かける。日本のように治安がいいはずがない 。 人がいとも簡単に殺され死んでいく姿も多く見た。 日本ならニュースで大事件だろう。しかしそんなことは珍しいことではなくニュースにもならない。気にかける人はそんなにいないという。 そして何よりバレン少年が一番強く感じたことは、『この国(ナイジェリア)では(富を)持っている人は持っている、しかし殆どの人々が何もなく夢さえみれない、日本なら努力すれば夢は叶うだろうけど、ナイジェリアでは格差が激しく夢をみる気力さえ奪われる。貧しい者は決して這い上がれないであろう 。そういう意味でオレは抜け出せて本当にラッキーだった』と語った。
『オレはこの国(ナイジェリア)で一生終わるのか・・・日本に帰りたい、いや、オレはいつの日か絶対這い上がってみせる!!』 しかし現実の話、日本へ帰るにも高額な日本までのエアチケット、買えるお金なんでどこにもない。日々の生活で苦労する両親にそんなことは決して言えない。どうすればいい?!
漆黒の闇夜、限りなく広がる無数の星達を見つめながら、そのことを考えていると今夜も眠れない、そんな日々が続いた。
ところがある日、ナイジェリアで優秀な学生をイギリスの世界的に有名な大学・ケンブリッジ大学に留学させるという話が舞い込んだ。 もちろん試験は超難関!! 『己を磨くことだけがこの状況から抜け出せる唯一のチャンスなんだ!』 バレン少年の心に火がついた!!『オレは絶対やってやる!!オレはこのチャンスをものにしてみせる 』必死で勉強に明け暮れる日々、この絶望から脱け出す為に・・・。
そしてなんとナイジェリアで1番の成績!!、見事ケンブリッジ大学の試験も合格!!、狭き難関をクリア!! 『やったぁ〜、これでやっとナイジェリアから抜け出せる、ナイジェリアでなければイギリスでも日本でもどこでもいい』
しかし合格したものの、学校の先生にその話をしても濁すばかり。 数日後、こんな噂が流れてきた。ナイジェリアで4番だった裕福だった子の親がその権利を金でなんとかしたらしい。 日本なら大問題だが、この国では普通のことなのだ。『やはり一部の富めるものだけなのか?!』やむを得ず夢を断念せざるを得なかった。
その後も日本の文部省が推進する日本の大学への留学にも合格したが、また同じように横取りされた。
ナイジェリアの地で貧しい生活を余儀なくされたバレン少年に、普通に留学やなど出来る費用など何処にもない。
『全てが終わった・・・』 またしても絶望の淵に立たされアフリカの大地立ち竦むバレン少年。
そんな時、奇跡が起きた。一連の流れを親から聞かされた宮崎の祖母が『よく頑張った、オマエは大したヤツだ、日本へ帰ってきなさい』と バレンを不憫に思ったのだろう。ご褒美にエアチケットが送られてきた!!
『やった〜!オレは勝ち取ったんだ〜!!、これからオレは日本の地でオレらしく生きる。まだ何かはわからないけど必ず自分の道で頂点を目指す!!ばぁちゃん、ありがとう!!』
夢と期待を胸に19才で帰国。
その夢が何かは彼自身しか知るよしがないが、その時点ではボクシングではなかったのだろう・・・。
『ナイジェリアか・・・あの頃は辛いことが多かったけど、あの頃に培ったことがあるからこそ今の僕がいる。今となれば貴重な体験だったよ』と語るバレンタイン。
あれから12年の歳月が流れた・・・2013年2月11日 、君の夢の頂点の一つがすぐそこに・・・。
そうだ!!あの時と同じように手を差し出し掴むんだ!!
僕は君を信じてるよ。
バレンタイン 、君ならできるよ、きっと・・・。
あとがき
皆様、お忙しい中、〜細川 バレンタイン・クロニクル〜、に目を通して頂きありがとうございました。 バレンだけ特別?って思われても仕方ありませんが、バレンの生きてきた世界や人生観、ナイジェリアの話本当に興味深かったので掲載させて頂きました。皆様にも何か生きるヒントにして頂ければ幸いです。
バレンがデビューした頃、バレンの試合の写真に添えた“いつの日か、ラスベガスのリングを夢見て・・・。” バレンが教えてくれた『夢は必ず叶う!!』この言葉を胸にバレンと共に頑張ってきました。 『 夢を持つと辛いことや困難なことも沢山あるけど、だからやり甲斐もあるし楽しい 』とも教えてくれたバレン。 君を教えたことより教わったことのほうが多いね。
バレンを温かく大切に育ててくれた細川ファミリー、本当にありがとう!!
宮田会長、ここまでバレンを導き、チャンスを作ってくれてありがとう!! 休みを全て返上しバレンの練習をサポートしてくれた小澤トレーナー、お疲れ様!!ありがとう!! バレンの練習に付き合ってくれたりワガママを聞いてくれたジムの仲間やスタッフ、ジム内外の方々、ありがとう!! そして何よりバレンを優しく見守り応援してくれるファンの方々、本当にありがとう!!皆様に愛を込めて〜・・・この想いを胸に細川 バレンタインと共に私は戦います!!
2月11日 必ずやバレンが日本タイトルを獲得し宮田ジムの皆様や応援して頂いているファンの方々と共に勝利を 分かち合いましょう!! 皆様応援よろしくお願いいたします。
そうそう、我々は まだまだ夢の途中、
“いつの日かラスベガスのリングを夢見て・・・♪
そして、この出逢いに感謝!!
細川 バレンタイン専属トレーナー・鈴木 聡